繭から外へ

 薄暗い部屋に戻ると、大きなベッドの上にシーツで胸元を隠すようにして彼女が座っている。一瞬天蓋付きのベッドを想像する。あるいは繭の様なものを想像する。その中心に俺の知らない何かがいて俺に言葉をささやいている。

「ねえ、付き合ってる人がいたらその人としか遊びに行ったり、セックスしたりしちゃいけないって、すごく不思議なんだよね。いいじゃん、恋人と色々楽しんでさ、それはもう濃厚に一番楽しんで、それ以外の人とも楽しそうなら遊べば。どうしてそれが駄目なんだろう?」

 俺は少し黙って彼女の言葉をかみしめてみる。ざらざらと口の中に嫌な感触がする。彼女の白い首元を見る。

「……いや、でもそれはやっぱり相手からしたら嫌じゃないですか。自分の恋人が自分以外の人と遊んだり、セックスしてるなんて」

「なんで?」

「自分とだけしてくれればいいじゃないですか」

「いやいや、だって私と、私以外の女の子がいたらさ、それは別人じゃない。同じ様にデートに行ってセックスしても全然それは別物でしょ」

「でも、そんな風に色々手を出されたら嫉妬するし、なんか気持ち悪くないですか。恋人ってそうやってとっかえひっかえ出来るものでいいんですかね」

「うわ、また自分の事棚に上げてぇ」

 急激に心がしぼむ。

「いや、そうなんですけど……」

「駄目だよ、あのね、開き直らない人は駄目。良識があるんですって顔して他人とセックスしようとするなんて駄目。良識があるんだなって思われてる時点で嘘ついてるからね」

「……」

—————————-

 耳の奥に残った甘ったるい言葉を口の中に含むと吐き気がする。その瞬間は気にならなかったのだけれど昼間に嗅ぐとウっと鼻の奥に詰まる甘いバーの匂い。とても空虚な『好きだよ』と『気持ちいい』の言葉。異様に脳みそが興奮した後、終わると疲れ切っている。

 嫉妬をする人と嫉妬をしない人の違いは何なのだろう。結局常識の差なのかもしれない。色んな人とセックスをするのが当たり前だという世界観の人は嫉妬なんてしないのかもしれない。

 自分は浮気されるのは嫌だ。嫉妬するからだ。

 でもその感覚を分かってもらうというのはとても難しい事なのだと、なんだか少しは分かった気になっていた事をはっきりと理解した気分だった。世の人たちが様々議論しているが、嫉妬の感覚が経験やそれに基づいて作られた世界観の差なのだとすれば、議論なんて無駄だろう。それは理屈の問題ではなく感覚の差だからだ。

 自分にもいつか、経験を持ってその感覚が理解できるようになるのだろうか。

 少なくとも、自分は浮気なんてしたくないし、誰とでもセックスなんてしたくない。昨日、初めて浮気にあたるセックスをした今でも。

 無茶苦茶をいえば、本当はしたくなかったセックスだった。

 それは恋人に対する当てつけの様なものだった。そうか、だったら俺も、と思ったのだ。あの子の言葉を借りれば、俺は良識があるという顔をされていたのだ。……そんな言い方はあまりに自分に非が無い言い方だが。そんな風に被害者面する権利は俺には無いのは分かっている。

 自分は他人にはなれない。そうかもしれない。誰かは誰かの代わりにはなれない。でもだとすれば、俺は他に遊ぶ気になれないぐらい大きくて強くならなくてはならない。そうでなければ……。

 ラブホテルの外に出て帰り道を一人で歩いていると、隣を通り過ぎる人間たちが今までと全く違った恐ろしいものの様に見えてくる。新宿の町中。男女も無数に歩いているが、この人たちは一体どういう関係で、どういう感覚の人たちなのだろう。恐怖と嫌悪感を持っていると、そのうちに矢印が自分の方に向いてくる。いや、俺だ。俺が気持ち悪くなっているのは、俺の中にある俺の感覚にそぐわない今の自分なのだ。

 俺はなんて気持ち悪いんだろう。

 でも、新宿の町中は今までよりも急に距離を詰めてきている。俺はそれをとても近い距離にあるものだと感じている。今までは他人のいる世界を通り過ぎている様な感覚だったのに、そういう気分がある。

 経験と感覚。

 経験と感覚だ。

 揺れる自分に言い聞かせる。

 駅の近くに行ったところで、ふと隅の方で動く何かに目が向いた。黒い服の男が少し背丈の低い女を壁際に抱き寄せてキスをしている。様子は獣か何かの様に見える。今までは背景の様に時折現れていたそれが、異様によく見える様な気がした。意味も無く立ち止まり、ほんの少しぼーっと見つめてしまう。

妙に具体的に中身が見える様な気がした。足。手。体。唇。舌。ふと女がやや抵抗を示している事に気が付いた。女の顔が見える。表情は硬い。口を閉じようとしている。二人が動き、男の表情が見える。男はにやにやと笑っている。こういう事もあるのかもしれない。思った瞬間俺は突然二人に声をかけていた。

「あの」

 驚いた様な顔が二つ、こちらを向く。

「嫌がってるから……」

 やめた方がいいですよ、と消え入る様な声で言う。口の中が急に渇いていた。心臓の音が耳に聞こえる。俺は何をしているんだ?馬鹿か?

 返答を聞く前に体を翻す。駅に向かって足早に歩く。つい一度後ろを向いた。二人はいなくなっていた。変な奴に声をかけられ、興をそがれたのかもしれない。

 繭の中に入った自分は、別のものに変異してしまうのだろうか。そうなりたい。そうでありたいと思う。

 これは一体何なのだろう。

 気持ち悪い、と思いながら俺は足早に電車に乗った。

タイトルとURLをコピーしました